安倍総理、本当にありがとうございました! 何とか 来年以降も、継続して頂きたいと思います。 今年の締め括りにふさわしい、すばらしい出来事でした。

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安倍総理、本当にありがとうございました! 何とか 来年以降も、継続して頂きたいと思います。 今年の締め括りにふさわしい、すばらしい出来事でした。
小泉氏は講演で、首相在任中の平成16年11月、チリで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)で、日中首脳会談の設定をめぐり、強硬姿勢に出ても会談が実現したエピソードを紹介した。
胡錦濤国家主席との2国間会談をめぐり、中国側から「来年、靖国神社を参拝しないなら受ける」と打診されたのに対し、外務省を通じ「必ず参拝します。それで会談を拒否するならかまわない」と返答したという。中国は最終的に、小泉氏が参拝を明言しないことを条件に、会談を受け入れたという。
その後、元日午前0時になると、本殿前で(略)「初太鼓打初式」に参加して、(略)3回叩いた。
(略)これまでも、国政選挙の前や例大祭などの行事に合わせて同神社を参拝している。首相就任後は平成22年8月に訪れた。
【 初太鼓打初式 1月1日 午前0時 】
崇敬者約60名が裃姿にて一人3打づつ太鼓を打つ儀式。響きわたる太鼓の音によって悪疫を退散させることを目的とする。(お寺で行う除夜の鐘に近いもの)
今日は 絶対参拝されると確信し 朝6時よりテレビに釘付けになっていました。 希望としては 閣議決定をし、同意する閣僚とともに 神道形式で参拝して頂きたかったのですが、現状では 今日の参拝形式が適切だったのかもしれません(^-^)
10時前から 総理官邸にて行われた約15分間の記者会見が圧巻でした(T-T) その中で 靖国神社参拝の批判は 下記の3点に要約されると述べました。
1:中国、韓国が不愉快に思うから、参拝するな! 2:A級戦犯が合祀されているから、参拝するな! 3:憲法(=政教分離)違反だから、参拝するな! |
それらに対してきちんと反論していました。 小泉総理は マスコミや評論家、コメンテータから 「説明責任を果たしていない!」と 散々批判されてきました。 そういう批判にも対応されたと思います。 さらに閣議が近づいているにもかかわらず 記者の質問にも答えていました。 今後 マスコミはどのように報道し、批判するのか 注目して行きたいと思います!
小泉総理へ
小泉純一郎首相は5日、山口県萩市にある松下村塾などを視察した。 (略)
ただ松陰神社への参拝に触れて「神道形式で参拝して憲法違反ですか。 どう思いますか。 見てたでしょ。 どうして憲法違反って言わないの」と記者団にチクリ。(略)
小泉総理の予定
平成18年8月4日(金) | ||
時 間 | 予 定 | 場 所 |
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午 前 | 閣 議 | 官 邸 |
午 後 | 山口県下視察へ |
小泉総理の当日の公務を紹介しております。なお、公式に発表されたもののみ掲載しており、予告なく変更になることがありますので、あらかじめご了承ください。
小泉総理の予定
平成17年10月17日(月) | |
予 定 | 場 所 |
---|---|
政府与党連絡会議 | 官 邸 |
グリーンスパンFRB議長表敬 | 〃 |
小泉総理の公式に発表された当日の公務のみを紹介しております。
麻生太郎外相講演の靖国神社参拝問題関連の要旨は次の通り。
靖国神社は東京都認可の宗教法人。国立でも何でもないから、靖国神社という一神社のやることに対して、国がああしろ、こうしろと言えない。
少なくとも日本国首相が自分の国内で、ここは行っていいけど、こっち行っちゃいかんというようなことを外国から言われて、決めるのは絶対通るところではない。
中国が言えば言うだけ、行かざるを得ないことになる。やめろ、やめろと言ったら行くんだから。たばこ吸うな吸うなと言えば吸いたくなるのと同じことだ。黙っているのが一番。
祭られている英霊の方からしてみれば、天皇陛下のために万歳と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロだ。天皇陛下の参拝なんだと思う。それが一番。
天皇陛下の参拝がなんでできなくなったのかと言えば、公人、私人の話からだから、それをどうすれば解決できるかという話にすれば、答えはいくつか出てくる。そういった形にすべきだと思っている。
麻生大臣 GJです(T_T) きっと朝日新聞を先頭にしたマスコミに口撃されるでしょうが、負けないで下さい! 応援してます∠(・-・) ちなみに麻生大臣はクリスチャンです(^-^)
だいたい、神主の最高位ともいえる天皇陛下が 御参拝できない神社があるなんて おかしい!!!
中国新聞、四国新聞、日本経済新聞、北海道新聞、熊本日日新聞、河北新報、新潟日報、静岡新聞、山陰中央新報、福島民友新聞、秋田魁新報、徳島新聞、岩手日報という各紙がのせているので 共同通信の配信でしょう。例によって、敬称なしですorz 中国新聞以外は 発言要旨をのせていないようです。
論 点 | 賛成 | 反対 |
---|---|---|
靖国神社の存在自体 | ◎ | |
一般人の参拝 | ○ | |
公的要人の個人的参拝 | ○ | |
政治家の公務参拝 | ◎ | |
国会議員の公務参拝 | ◎ | |
国務大臣の公務参拝 | ◎ | |
総理大臣の公務参拝 | ◎ | |
天皇陛下の参拝 | ◎ |
私は 上記の論点を選びました。 一人一人、論点自体 異なると考えています。 一人でも多くのブロガーが、記事にして頂ければ 大変うれしいです!
ダウンロード後 コピペして下さい。 seesaa以外で 試した事はないですが、たぶん(^^;) 大丈夫だと思います。 ちなみに論点は 思いつきを記入しているので、参考程度にして下さい(..)
なお、作成された記事から この記事へのリンクをお願いします。 もちろんTBも 歓迎致します(^o^)/
昭和16年12月8日、日本は米英に対し宣戦布告し、大東亜戦争に突入した。
開戦初期、日本はハワイ真珠湾、マレー、シンガポール作戦等で戦果を挙げたが、昭和17年6月ミッドウェー海戦において航空母艦の大半を失い、その後戦況は逆転の様相を呈してきた。
その時、インド独立の活動を続けていたチャンドラボースが日本への支援を要請してきた。日本はその要請に呼応し、インド国内の要衝インパールを奪取して、インド国内の反英独立勢力の支援と、混迷する戦局の打開を計るべく、インパール作戦の実施に踏み切ったのである。
ビルマ方面軍第15軍傘下の7万8千、そしてインド人の志願兵によるインド国民軍(INA)2万もチャンドラボースの統卒下に参加した。
昭和19年3月8日 先ず第33師団「弓」はインパールを南方より攻撃すべく行動を起し、主力は3月15日払暁を期し、一斉にチンドウイン河を奇襲渡河し、アラカンの峻険を超えて進撃を開始した。
3月28日 第15師団「祭」の挺進隊はミッションを占領、インパール−コヒマ道を遮断、次いで、4月5日 第31師団「烈」はコヒマを占領、祭の主力はインパール北及び東北インパールを指呼の間に見る地区に進出した。
「弓」兵団もインパール南方に進出、英軍団をコヒマ、インパール付近に捕捉する態勢を確立したかに見えた。
インド国民軍も「烈」と「弓」の両兵団と行動を共にして、遂に念願のインド国領土(コヒマ及びモイラン)に進出、インドの三色旗をひるがえしたのである。
しかし英軍の抵抗は極めて頑強で、戦線は膠着、更に空輸により潤沢な補給を行い、反攻を加えてきた。日本軍はこれに対し死闘を繰り返したが、食料弾薬共に全く杜絶し、戦力の消耗は極限に達し、6月遂に撤退を開始した。
その時アラカンは雨季の最盛期に入り、連日の大豪雨に河川は氾濫、路なきジャングルの中、英軍の急迫を受け惨澹たる結果となった。
インド独立
戦後、昭和20年11月 インドを支配していたイギリス当局は 「インパール作戦に参加したインド国民軍は、イギリス皇帝に対する反逆者である」として、3名の将校を極刑に処そうとした。インドの民衆の意向に背いて、軍事裁判を強行した英当局に対する大衆の怒りは爆発した。
抗議運動はインド全土に広がり、いたるところで官憲と衝突、流血の惨事となった。 更に英国本土にショックを与えたのは、英海軍のインド人乗務員の一斉反乱であった。
英国も遂に事態収拾困難と考え統治権を譲渡、昭和22年8月15日 インドはパキスタンと共に独立したのである。
しかし この作戦が直接の契機となり、今後相当の年月がかかるであろうと言われていたインド独立が、戦後わずか2年で達成されたのである。
それぞれの国と家族を思う純粋な心と信念をもって戦った、日本軍とインド国民軍(INA)の英霊を私達は忘れることはできない。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、先の大戦において海外で亡くなられた戦没者の御遺骨を納めるため、昭和34年、国により建設された「無名戦没者の墓」です。ここに納められている御遺骨は、昭和28年以降政府派遣団が収集したもの及び戦後海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人も含まれており、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです。
当墓苑の敷地は約5,000坪。常緑樹を主とし、そこに欅など落葉樹を混えるといった戦没者墓苑に相応しい厳かさ、静けさを保つ工夫がなされました。創建当時、細く低かった樹木は大きく成長し、特に、楠、欅などは鬱蒼と生い茂り、この墓苑の厳かさを一層感じさせてくれます。
納骨室について
御遺骨は、六角堂の中央に置かれた陶棺の下の地下納骨室及び平成3年3月及び平成12年3月に増設された六角堂奥正面の地下納骨室に安置されております。
陶棺について
陶棺は、型式をわが国古代豪族の棺に模したもので、主要戦域から収集した小石を材料とし、1,700度の高熱で処理した、重量5トンの世界最大級の陶製品です。この中に、昭和天皇御下賜の金銅製茶壷形の納骨壷があり、戦没者を代表する御遺骨が納められています。
御製の碑
この碑は墓苑創建の年の秋、昭和天皇陛下から下賜された御製を秩父宮妃殿下が謹書され、昭和35年(1960年)3月28日に竣工したものです。
千鳥ヶ淵は、江戸城を囲む内堀です。東京でも指折りの桜の名所で、お花見の時には、数十万といわれる人たちで賑わいます。また、ここからの風景は、季節季節に、捨てがたい趣があり、一年を通じて多くの人々を楽しませています。
引用 千鳥ヶ淵戦没者墓苑リーフレット
靖国神社
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靖国神社は 三回目の参拝でしたが いつ行ってもたくさん人がいます。境内や遊就館には、主に白人系の外国人が結構いらっしゃいました。親子連れも何組か見かけました。
印象に残ったのは ポニーテールにした女性が、一生懸命メモしている姿でした。 手水舎近くで目があったので アイコンタクトを送り 二人並んで手と口を清めました(=^_^=)
遊就館
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遊就館は二回目でしたが 前回 時間がなくて見られなかった「私たちは忘れない!(50分)」を見てきました! 涙があふれました(T-T)
残念ながら「明治天皇と日露大戦争(114分)」は、時間が合わなくて見ることが出来ませんでした。 ちなみに上映は10時半と13時半の二回です。
改めて、 弱小国日本が 独立を守るため どれほど必死であったのか、そして 日露戦争の勝利が有色人種にとって いかに画期的な事であったのかを 再確認してきました。
千鳥ケ淵戦没者墓苑
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千鳥ケ淵戦没者墓苑にはあまり 人がいませんでした(-_-) 菊(100円)を献花し、合掌してきました(-人-) 休憩していた男性に伺うと 団体以外は あまりいないようだと仰ってました。 非常に静かな墓苑では ありました。
最後になりましたが、時代の大きな波に翻弄され 苦労された先人の方々に、感謝申し上げます。そして戦争によって亡くなられた皆様のご冥福を、心よりお祈り致します<(..)>そこで リアルタイム世論調査@インターネットに質問を作成致しました。 靖国神社の問題は、たくさんのブログで書かれていると思います。 それらを読んで 今の考えを投票頂ければと思います。
【追悼】−死者の生前をしのび、その死をいたみ悲しむこと。
【慰霊】−死んだ人の霊魂をなぐさめること。
【祈念】−神仏に祈り、目的の達成を念じること。(by goo)
読売新聞 社説(05/06/04)
[靖国参拝問題]「国立追悼施設の建立を急げ」
小泉内閣の誕生した2001年、福田官房長官の私的懇談会が、戦没者の追悼のあり方について検討を進め、翌年には国立、無宗教の追悼・平和祈念施設の建設を提言する報告書をまとめている。
どのような施設にするのか、どう追悼するのかといった点で、報告書は具体性に乏しい面もあるが、早急にその内容を詰め、新しい追悼施設の建立に着手すべきだろう。
朝日新聞 社説(05/06/05)
靖国参拝 遺族におこたえしたい
02年、当時の福田官房長官の私的諮問機関は、戦没者を追悼する場として新たな無宗教の国立施設の建立を提言した。そんな施設こそ、首相が日本国民を代表して訪れ、哀悼の誠をささげる場にふさわしい。いま、改めてそう考える。
質問内容を転記します。 投票はリンク先でお願いします。 調査期間は半年で 28日間は再投票出来ません。
靖国神社 VS 国立追悼施設--リアルタイム世論調査@インターネット
質問 もし 無宗教の国立追悼施設が出来た場合、あなたはどうされますか?(したいですか?)
1. 両方に参拝する。
■調査期間:2005年06月05日13時46分〜2005年12月02日13時46分
1 名前: hiro 2005年06月05日 14時04分 ID:1lM4V3CO3Jw なお 【その他】に投票の方は掲示板にコメント頂けると幸いです。どうぞよろしくお願い致します<(..)> (上記の設問を作成 → うーん 我ながら文章力がない...)
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代 | 氏名 | 参拝回数 | 在任期間 | 政党 |
---|---|---|---|---|
45 | 吉田茂 | 0 | 1946/05/22-1947/05/24 | 自由党 |
46 | 片山哲 | × | 1947/05/24-1948/03/10 | 日本社会党 |
47 | 芦田均 | × | 1948/03/10-1948/10/15 | 日本民主党 |
48 | 吉田茂 | 0 | 1948/10/15-1949/02/16 | 自由党 |
49 | 吉田茂 | 2 | 1949/02/16-1952/10/30 | 自由党 |
50 | 吉田茂 | 1 | 1952/10/30-1953/05/21 | 自由党 |
51 | 吉田茂 | 2 | 1953/05/21-1954/12/10 | 自由党 |
52 | 鳩山一郎 | × | 1954/12/10-1955/03/19 | 日本民主党 |
53 | 鳩山一郎 | × | 1955/03/19-1955/11/22 | 日本民主党 |
54 | 鳩山一郎 | × | 1955/11/22-1956/12/23 | 自由民主党 |
55 | 石橋湛山 | × | 1956/12/23-1957/02/25 | 自由民主党 |
56 | 岸信介 | 1 | 1957/02/25-1958/06/12 | 自由民主党 |
57 | 岸信介 | 1 | 1958/06/12-1960/07/19 | 自由民主党 |
58 | 池田勇人 | 1 | 1960/07/19-1960/12/08 | 自由民主党 |
59 | 池田勇人 | 4 | 1960/12/08-1963/12/09 | 自由民主党 |
60 | 池田勇人 | 0 | 1963/12/09-1964/11/09 | 自由民主党 |
61 | 佐藤榮作 | 2 | 1964/11/09-1967/02/17 | 自由民主党 |
62 | 佐藤榮作 | 4 | 1967/02/17-1970/01/14 | 自由民主党 |
63 | 佐藤榮作 | 5 | 1970/01/14-1972/07/07 | 自由民主党 |
64 | 田中角榮 | 1 | 1972/07/07-1972/12/22 | 自由民主党 |
65 | 田中角榮 | 4 | 1972/12/22-1974/12/09 | 自由民主党 |
66 | 三木武夫 | 3 | 1974/12/09-1976/12/24 | 自由民主党 |
67 | 福田赳夫 | 4 | 1976/12/24-1978/12/07 | 自由民主党 |
代 | 氏名 | 参拝回数 | 在任期間 | 政党 |
---|---|---|---|---|
68 | 大平正芳 | 2 | 1978/12/07-1979/11/09 | 自由民主党 |
69 | 大平正芳 | 1 | 1979/11/09-1980/06/12 | 自由民主党 |
70 | 鈴木善幸 | 9 | 1980/07/17-1982/11/27 | 自由民主党 |
71 | 中曽根康弘 | 3 | 1982/11/27-1983/12/27 | 自由民主党 |
72 | 中曽根康弘 | 7 | 1983/12/27-1986/07/22 | 自由民主党 |
73 | 中曽根康弘 | 0 | 1986/07/22-1987/11/06 | 自由民主党 |
74 | 竹下登 | × | 1987/11/06-1989/06/03 | 自由民主党 |
75 | 宇野宗佑 | × | 1989/06/03-1989/08/10 | 自由民主党 |
76 | 海部俊樹 | × | 1989/08/10-1990/02/28 | 自由民主党 |
77 | 海部俊樹 | × | 1990/02/28-1991/11/05 | 自由民主党 |
78 | 宮澤喜一 | × | 1991/11/05-1993/08/09 | 自由民主党 |
79 | 細川護熙 | × | 1993/08/09-1994/04/28 | 日本新党 |
80 | 羽田孜 | × | 1994/04/28-1994/06/30 | 新生党 |
81 | 村山富市 | × | 1994/06/30-1996/01/11 | 日本社会党 |
82 | 橋本龍太郎 | 1 | 1996/01/11-1996/11/07 | 自由民主党 |
83 | 橋本龍太郎 | 0 | 1996/11/07-1998/07/30 | 自由民主党 |
84 | 小渕恵三 | × | 1998/07/30-2000/04/05 | 自由民主党 |
85 | 森喜朗 | × | 2000/04/05-2000/07/04 | 自由民主党 |
86 | 森喜朗 | × | 2000/07/04-2001/04/26 | 自由民主党 |
87 | 小泉純一郎 | 3 | 2001/04/26-2003/11/19 | 自由民主党 |
88 | 小泉純一郎 | 1 | 2003/11/19-現在 | 自由民主党 |
No. | 順位 | 氏名 | 参拝回数 | 合祀 | 政党 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1 | 佐藤榮作 | 11 | 前 | 自由民主党 |
2 | 2 | 中曽根康弘 | 10 | 後 | 自由民主党 |
3 | 3 | 鈴木善幸 | 9 | 後 | 自由民主党 |
4 | 4 | 吉田茂 | 5 | 前 | 自由党 |
5 | 4 | 池田勇人 | 5 | 前 | 自由民主党 |
6 | 4 | 田中角榮 | 5 | 前 | 自由民主党 |
7 | 7 | 福田赳夫 | 4 | 前 | 自由民主党 |
8 | 7 | 小泉純一郎 | 4 | 後 | 自由民主党 |
9 | 9 | 三木武夫 | 3 | 前 | 自由民主党 |
10 | 9 | 大平正芳 | 3 | 後 | 自由民主党 |
11 | 11 | 岸信介 | 2 | 前 | 自由民主党 |
12 | 12 | 橋本龍太郎 | 1 | 後 | 自由民主党 |
13 | 13 | 片山哲 | 0 | 前 | 日本社会党 |
14 | 13 | 芦田均 | 0 | 前 | 日本民主党 |
15 | 13 | 鳩山一郎 | 0 | 前 | 日本民主党 |
16 | 13 | 石橋湛山 | 0 | 前 | 自由民主党 |
17 | 13 | 竹下登 | 0 | 後 | 自由民主党 |
18 | 13 | 宇野宗佑 | 0 | 後 | 自由民主党 |
19 | 13 | 海部俊樹 | 0 | 後 | 自由民主党 |
20 | 13 | 宮澤喜一 | 0 | 後 | 自由民主党 |
21 | 13 | 細川護熙 | 0 | 後 | 日本新党 |
22 | 13 | 羽田孜 | 0 | 後 | 新生党 |
23 | 13 | 村山富市 | 0 | 後 | 日本社会党 |
24 | 13 | 小渕恵三 | 0 | 後 | 自由民主党 |
25 | 13 | 森喜朗 | 0 | 後 | 自由民主党 |
はじめに
世界のどの国家も、国家ないしは民族のために命を捧げた英霊を一般国民が祀るための場所を用意し、国家として慰霊追悼行事を行っています。
米国のアーリントン墓地への参拝と靖国神社への参拝はまさしく同質です。それは国の礼儀であり、魂を尊重する行為だからです。
靖国神社と千鳥が淵墓苑
靖国神社には遺骨は無論のこと位牌も納められていません。 遺骨については各家族が家族の墓地に納め、また位牌はそれぞれの遺族が主に家庭の祭壇で祀っているのが一般的です。靖国神社には戦没者が神として合祀されているだけです。
千鳥が淵墓苑は無名戦士戦没者の墓です。ここには、犠牲者の姓名が不明なため、遺族が判明しない無名戦士の遺骨が納められています。
靖国神社御祭神柱数(平成16年10月17日現在)
明治維新 | 7,751 |
西南戦争 | 6,971 |
日清戦争 | 13,619 |
台湾征討 | 1,130 |
北清事変 | 1,256 |
日露戦争 | 88,429 |
第一次世界大戦 | 4,850 |
済南事変 | 185 |
満洲事変 | 17,176 |
支那事変 | 191,250 |
大東亜戦争 | 2,133,915 |
合計 | 2,466,532 |
日本の精神文化
日本人は死者については敵も味方もなく「死後は神になる」 として平等に扱うという寛容の精神を持っているということです。味方だけではなく、敵側の犠牲者も英霊として祭るのは日本人の伝統的精神の一つです。
1945年4月、ルーズベルト大統領が逝去した時、ヒトラーは狂喜しましたが、鈴木貫太郎首相はアメリカ国民に向けて弔意を表す談話を発表しました。これが日本の精神文化です。
中国の精神文化
中国人と韓国人は、敵に対して絶対不寛容です。敵に対しては「生きてその肉を喰らい、その皮で寝る」ことを願うほど憎みぬき、死後は「その魂を喰らう」とまで誓うほど、敵は永遠に敵です。これは中国人の代表的死生観であり、伝統文化でもあります。
中国人はいまでも日本に対する復讐が終わっていないと本気で考えています。子々孫々の代まで憎み続け、復讐しなければならないという掟は中国の文化そのものです。
善悪の二者択一という決めつけの思考しか存在せず、報復主義を主張する「勧善懲悪」の儒教倫理が中国文化の中核です。他者に対する独善的な強制のみです。
「勧善懲悪」の思想の背景には、道徳第一主義の中華思想があり、日本に対する民族的優越感があります。
中国と韓国の宗教観
中国と韓国の宗教は極めて儒教に影響を受けているか、あるいは儒教そのものです。特に韓国では二十世紀初頭まで儒教が国教でした。
儒教の死生観では、死とは人間の精神を司る「魂(こん)」と、肉体を司る「魄(はく)」が分離することです。「魂」は中空を漂い、さ迷っていると信じられています。それが合体すれば、死者が蘇ります。
それを防ぐためには、墓を暴き、死体を破壊しなければ、安心できないのです。
政教分離
「政教分離を定めた日本国憲法20条に違反している」というのは誤解で、1977年の最高裁の判決(7月の津地鎮祭訴訟)で、神道による儀式が 他の宗教への干渉にならない限り、問題はないことが明確になっています。
ちなみに 政府主催で毎年8月15日に戦没者追悼式を行っています。菊の花に囲まれた祭壇の中央に依り代が飾られていますが、これは儒教形式であり、位牌に相当します。これに霊が呼ばれて憑くのです。もちろんいわゆるA、BC級戦犯も含まれています。
完全に宗教的行事ですが、天皇陛下始め、首相、閣僚、衆参両院議長、最高裁判所長官などが参列しています。
政教分離やA級戦犯合祀を理由に 靖国への参拝に反対する政党からも、その代表が参列しているのは矛盾しています。
日本国内法
1952年に日本が独立を回復した後、「戦犯」とされ、 独立後も連合国の刑務所などに拘束されていた人々を解放する4,000万人署名運動が起こされて徐々に戦犯を保護するよう各種法律も変えられました。
国内法のもとでは、講和独立後、いわゆる戦犯はもはや戦犯ではないのです。戦犯として処刑されてしまった方々の遺族も一般の戦没者の遺族と同じ扱いを受けています。
まとめ
中華史観と日本史観の基本的対立の根源は、このような死生観の違いにあります。靖国神社参拝をめぐる日中の対立の本質は、「死ねばみな神となり、敵も味方もなくなる」という日本の精神文化と、「末代まで憎しみ続ける」という中国の精神文化との摩擦です。
【武官】−(1)軍事に携わる官吏
【官吏】−(1)国家公務員の通称 役人 官員 (by goo)
アジア 中文 | ||
No. | 国 名 | 分 類 |
1 | インド | 元軍人、大臣、武官、歴史学者、公務員、民間 |
2 | インドネシア | 大臣 |
3 | スリランカ | 大使 |
4 | タイ | 軍人、武官 |
5 | 台湾 | 遺族 |
6 | チベット | 前首相、宗教者 |
7 | パキスタン | 武官 |
8 | マレーシア | 武官 |
9 | ミャンマー | 大臣、武官 |
南北アメリカ 中文 | ||
No. | 国 名 | 分 類 |
10 | アメリカ | 元軍人、軍人、公務員、学生 |
11 | カナダ | 民間、学生 |
12 | チリ | 大臣 |
13 | ブラジル | 武官 |
14 | ペルー | 前大統領 |
15 | メキシコ | 武官 |
ヨーロッパ | ||
No. | 国 名 | 分 類 |
16 | アゼルバイジャン | 元首相 |
17 | イギリス | 武官 |
18 | イタリア | 武官 |
19 | オーストリア | 宗教学者 |
20 | スイス | 軍人、武官 |
21 | スロベニア | 国連大使 |
22 | ドイツ | 軍人、武官、民間 |
23 | フィンランド | 特命大使 |
24 | ポーランド | 軍人、武官 |
25 | リトアニア | 首相 |
26 | ルーマニア | 軍人、武官 |
27 | ロシア | 武官 |
大洋州 中文 | ||
No. | 国 名 | 分 類 |
28 | パラオ | 政府顧問 |
中東 | ||
No. | 国 名 | 分 類 |
29 | イスラエル | 武官 |
30 | イラン | 一等書記官 |
31 | トルコ | 軍人、武官 |
アフリカ | ||
No. | 国 名 | 分 類 |
32 | エジプト | 大使、公使、宗教学者 |
詳細は 下記のページで確認して下さい(^o^)
靖国神社 外国人参拝者(1)S54〜H08(1979〜1996)
靖国神社 外国人参拝者(2)H09〜H11(1997〜1999)
靖国神社 外国人参拝者(3)H12〜H14(2000〜2002)
参考写真
年月日 | 国名 | 肩書・氏名 |
H12/01/12 (2000) | アメリカ | コルゲート大学学生 |
H12/04/05 (2000) | 台湾 | 臺灣高砂族元義勇兵・遺族 |
H12/04/08 (2000) | トルコ | 大使館付武官セミー・イエシブルサ海軍大佐 |
H12/04/08 (2000) | ルーマニア | 大使館付武官イラン・ラアルジュアル空軍大佐 |
H12/04/08 (2000) | イスラエル | 大使館付武官ズイブ陸軍大佐 |
H12/04/08 (2000) | スイス | 大使館付武官マイヤ陸軍大佐 |
H12/04/08 (2000) | ミャンマー | 大使館付武官キン・モン・ウィン陸軍大佐 |
H12/04/08 (2000) | イタリア | 大使館付武官オファーノ・ルチアーノ海軍大佐 |
H12/04/08 (2000) | ポーランド | 大使館付武官キメク・トーマス陸軍大佐 |
H12/04/08 (2000) | ロシア | 大使館付武官ボカチョンコフ海軍大佐 |
H12/04/08 (2000) | インド | 大使館付武官ヴァドガオンカール陸軍大佐、空軍ビスワン空軍大尉 |
H12/04/08 (2000) | メキシコ | 大使館付武官セルジオ・ララ・モンテジャーノ海軍少将 |
H12/04/17 (2000) | 台湾 | 臺灣高砂族元義勇兵・遺族 |
H12/04/26 (2000) | インド | 沿岸警備隊長官ジョン・コリンズ・デシルバ海軍中将 |
H12/10/18 (2000) | イタリア | 大使館付武官オッタリオ・ルティグハーノ海軍大佐 |
H12/10/18 (2000) | トルコ | 大使館付武官クトイ・ジング氏 |
H13/03/22 (2001) | カナダ | ビクトリア市 セントマイケルズ・ユニバーシティ・ミドルスクール |
H13/04/07 (2001) | スイス | 国防武官(?)ハンズ・R・マイヤ陸軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | インド | 大使館付武官ヴァドガオンカール陸軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | イスラエル | 大使館付武官ズイブ陸軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | ミャンマー | 大使館付武官キン・モン・ウィン陸軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | ポーランド | 大使館付武官スタルシコ陸軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | ルーマニア | 大使館付武官ラルジュアーヌ陸軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | トルコ | 大使館付武官セミー・イエシブルサ海軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | ドイツ | 大使館付武官ライムンド・ヴァルナー海軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | ブラジル | 大使館付武官クラウジオ・ホジェリオ・デ・アンドラ・フロール海軍大佐 |
H13/04/07 (2001) | 台湾 | 臺灣高座會(臺灣出身元少年工員・家族) |
H13/04/22 (2001) | ブラジル | 大使館付武官クラウジオ・ホジェリオ・デ・アンドラ・フロール海軍大佐 |
H13/04/22 (2001) | トルコ | 大使館付武官クタイ・ゲンチ陸軍大佐 |
H13/04/26 (2001) | アメリカ | 海兵隊第三師団長ウォーレス・グレッグソン海兵隊少将 |
H13/06/27 (2001) | インド | ヒンズー教徒カリアン・ババ氏 |
H13/10/18 (2001) | トルコ | 大使館付武官クタイ・ゲンチ陸軍大佐 |
H13/10/30 (2001) | アゼルバイジャン | 元首相・人民戦線党最高評議会議長アリ・マシホフ氏 |
H14/04/10 (2002) | ペルー | 前大統領アルベルト・フジモリ氏 |
H14/05/31 (2002) | アメリカ | 在日米軍空軍基地将校会ロニー・デート空軍少佐以下 |
年月日 | 国名 | 肩書・氏名 |
H09/04/05 (1997) | トルコ | 大使館付武官ネディム・ランバー海軍大佐 |
H09/04/05 (1997) | ルーマニア | 大使館付武官ダン空軍大佐 |
H09/04/05 (1997) | インド | 大使館付武官カトチ陸軍大佐 |
H09/04/05 (1997) | マレーシア | 大使館付武官ハミド海軍大佐 |
H09/04/05 (1997) | イスラエル | 大使館付武官ドルファン准将 |
H09/04/05 (1997) | ロシア | 大使館付プロコペンコ事務官、大使館付武官エヴストラホフ陸軍少将 |
H09/04/05 (1997) | タイ | 大使館付武官シーラカムクライ氏 |
H09/04/13 (1997) | タイ | プーン・サック海軍中将 |
H09/04/22 (1997) | ルーマニア | ダン空軍大佐 |
H09/04/22 (1997) | スイス | ドルガー防衛軍大佐 |
H09/04/22 (1997) | タイ | ポンプン陸軍大佐 |
H09/11/25 (1997) | インド | プロサント・パール夫妻(パール博士の子息) |
H10/04/04 (1998) | ルーマニア | 大使館付武官ラルジュアーヌ陸軍大佐 |
H10/04/04 (1998) | イスラエル | 大使館付武官ドルファン准将 |
H10/04/04 (1998) | インド | 大使館付武官ヴォドガオン・カール海軍大佐 |
H10/04/04 (1998) | ブラジル | 大使館付武官キーゼル海軍大佐 |
H10/04/04 (1998) | ポーランド | 大使館付武官スタルシコ陸軍大佐 |
H10/04/04 (1998) | ロシア | 大使館付武官エフストラフコ陸軍少将、大使館付武官ボカチョンコフ海軍大佐 |
H10/04/04 (1998) | スイス | 大使館付武官マイヤ陸軍大佐 |
H10/04/04 (1998) | トルコ | 大使館付武官アンバル海軍大佐 |
H10/04/22 (1998) | イスラエル | 大使館付武官ドルファン准将 |
H10/04/22 (1998) | ブラジル | 大使館付武官キーゼル海軍大佐 |
H10/04/22 (1998) | トルコ | 大使館付武官アンバル海軍大佐 |
H10/04/22 (1998) | ポーランド | 大使館付武官スタルシコ陸軍大佐 |
H10/06/27 (1998) | アメリカ | 海軍第七艦隊ミカエル・ローランド・オリバー海軍大佐 |
H10/10/18 (1998) | トルコ | セミー・イエシブルサ海軍大佐 |
H10/10/18 (1998) | ポーランド | スタルシコ陸軍大佐 |
H11/03/19 (1999) | カナダ | ビクトリア市 セントマイケルズ・ユニバーシティ・スクール |
H11/04/03 (1999) | インド | 大使館付武官ウェヘライ海軍大佐 |
H11/04/03 (1999) | ルーマニア | 大使館付武官イラン・ラアルジェアヌ空軍大佐 |
H11/04/03 (1999) | ロシア | 大使館付武官ボカチョンコフ海軍大佐 |
H11/04/03 (1999) | タイ | 大使館付武官マイトリー空軍大佐、大使館付武官スリヤン陸軍大佐 |
H11/04/03 (1999) | トルコ | 大使館付武官イエシルブルサ海軍大佐 |
H11/04/03 (1999) | イラン | 大使館付武官サファリ海軍少将 |
H11/04/03 (1999) | ブラジル | 大使館付武官フェヘライ海軍大佐 |
H11/04/03 (1999) | マレーシア | 大使館付武官ハミド海軍大佐 |
H11/09/13 (1999) | チベット | チベット佛教リクー・ブッダ・ダツ氏 |
H11/10/19 (1999) | ポーランド | 大使館付武官ヴワデイスフク・スタルシコ陸軍大佐 |
H11/10/19 (1999) | トルコ | 大使館付武官イエシルブルサ海軍大佐 |
年月日 | 国名 | 肩書・氏名 |
S54/10/28 (1979) | インド | カルカッタ市チャンドラボース・リザーチィン・スティテュード館長 シシール・クマール・ボース夫妻 |
S55/11/01 (1980) | チベット | チベット佛教(ラマ教) 法王ダライ・ラマ14世 |
S56/01/26 (1981) | アメリカ | 空軍横田基地司令官ドゥエイン・C・オーベルグ大佐夫妻以下 |
S56/04/29 (1981) | アメリカ | 在日アメリカンスクール教育長リチャード・T・オスナー氏 |
S56/05/12 (1981) | オーストリア | ウイーン大学宗教学 フリッツ・フィンガー・ライダー教授夫妻一行 |
S56/06/02 (1981) | オーストリア | ウイーン大学宗教学 フリッツ・フィンガー・ライダー教授夫妻一行 |
S56/06/22 (1981) | インドネシア | アラムシャ・R・プラウィネガラ宗教相 |
S57/11/25 (1982) | エジプト | 前世界イスラム審議会事務総長 モハメッド・トゥフィック・オーエイダ博士 |
S58/08/04 (1983) | アメリカ | 国立公園アリゾナ記念館 ゲーリー・カミンズ館長参拝 |
S58/11/09 (1983) | インド | マガタ大学歴史学教授 アングッシュマン・ラビ博士 シンジャ・アワンマドゥ・クレジ博士 |
S59/12/13 (1984) | インド | 旧国民軍 シャーザダ・ブランデイーン・カーン陸軍大佐 |
S60/06/10 (1985) | エジプト | 駐日大使モハメッド・サミー・サーベット氏・公使アニース・ネマタラー氏 |
S60/07/23 (1985) | アメリカ | 横田基地空軍司令官ウォル・ファイル大佐 |
S60/10/18 (1985) | ドイツ | 大使館国防武官マウル大佐 |
S61/06/06 (1986) | アメリカ | 横田基地空軍副司令官エドワード・フライ大佐 |
S62/10/19 (1987) | ドイツ | 元大使館付武官クルグ海軍大佐夫妻 参列 |
S63/08/13 (1988) | パキスタン | 大使館付陸軍准将ブリカディー・ムハマド・ネイブ・テナ氏 |
S63/10/27 (1988) | アメリカ | 横須賀基地司令官スティーブン・H・ハウエル海軍大佐 |
H01/06/20 (1989) | アメリカ | 横須賀基地司令官スティーブン・H・ハウエル海軍大佐 |
H01/11/14 (1989) | ドイツ | ハンブルク市国防軍指揮幕僚學校教官エーベルバルト・メシェル空軍大佐 |
H02/10/27 (1990) | ドイツ | シュトゥットガルト放送交響楽団団長 ルッツ・リューデンマン博士 |
H03/10/30 (1991) | チリ | 通産大臣 ルネ・アベリウク氏 |
H04/03/01 (1992) | スリランカ | 在日大使 C・マヘンドラン氏 |
H04/07/10 (1992) | フィンランド | 特命大使 カリ・ベリホルム氏 |
H05/09/21 (1993) | リトアニア | アドルファス・スレジェべシス首相 |
H05/11/07 (1993) | タイ | 空軍司令官補佐サマート・ソサティット空軍大将 |
H06/06/15 (1994) | イギリス | 駐日大使館付武官M・スミス海軍大佐 |
H07/04/26 (1995) | インド | 故ラダビノ−ル・パール博士の令息 プロサント・パール氏 |
H07/05/30 (1995) | チベット | 前主席大臣(首相)テイジン・テトン |
H07/08/02 (1995) | ミャンマー | (旧ビルマ)文化大臣ウ・アエ氏 |
H07/08/14 (1995) | パラオ | 政府顧問イナボ・イナボ氏 |
H07/11/01 (1995) | ドイツ | 駐日武官ロベルト・ウェルナー夫妻 |
H08/06/15 (1996) | イギリス | 大使館付武官ロバートソン大佐・エドワーズ大佐 |
H08/06/17 (1996) | アメリカ・日本 | パラオぺリリュ−戦の旧日米両軍関係者53人 |
H08/08/13 (1996) | イラン | 一等書記官M・シャケリ氏 |
H08/08/13 (1996) | ドイツ | 大使館国防武官ロベルト・ウェルナー陸軍大佐 |
H08/08/20 (1996) | スロベニア | 国連大使ダニーロ・チュルク氏 |
H08/10/18 (1996) | トルコ | 大使館駐日武官ネディム・アンバル海軍大佐 |
H08/11/01 (1996) | 旧朝鮮王朝 李玖王子 |
靖国神社(直訳「平和な国の神殿」)は東京(日本)の神社です。
神殿の名前は元々、靖國神社(靖国ジンジャ)に書かれましたが、joyo漢字の名称で、名前は現在、靖国神社に書かれます。
2003年10月現在、SoulsのBookは戦争で殺された246万6495人の日本の、そして、元植民地の軍人(韓国で台湾にほとんど強制されます)の名前を記載します。
コンテンツ1 歴史
2 神(注:Godではなく Kamiと表記)
3 論争
4 時事問題
5 一層の読書
6 参照
7 外部のリンク
神殿は1869年6月に元々、Meiji皇帝が戊辰戦争の犠牲者を記念する命令で建築されました。
元々東京Shokonsha(東京招魂社)と命名されていて、神殿は1879年に靖国ジンジャに改名されました。
神殿はすべての日本の、そして、元植民地の軍人(韓国の、そして、台湾の)のkami(スピリッツ)がそれ以来闘争でだめにした家への神道儀礼を実行しました。
1945年9月の第二次世界大戦における日本の敗北の後に、アメリカ主導のOccupation Authoritiesは、世俗的な政府機関、または日本政府から独立している宗教団体になるように靖国に命令しました。 靖国は後者を選びました。
その時以来、完全に靖国に個人的に資金を供給しています。
神↓これは靖国神社の(正式に祭神saishinであって、柱hashiraとして数えられる)のenshired kamiのカウントです。
戊辰戦争(1867-68の内戦): 7,751
西南戦争(内戦、1877): 6,971
台湾の遠征(日本の占領に対する台湾の反逆の抑圧、1874): 1,130
日清戦争(1894-95の中国の侵入): 13,619
Beiqing事件(中国の侵入、1901): 1,256
日露戦争(1904-05の中国と韓国のロシアと侵入との闘争): 88,429
第一次世界大戦(1914-18の中国とモンゴリアの侵入): 4,850
Tsi-nan事件(中国の侵入、1928): 185
Mukden事件(満州の侵入、1931): 17,176
蘆溝橋事件(中国の侵入、1937-1945): 191,243
第二次世界大戦(ソ連と合衆国との闘争とアジアのカンボジア、中国、インドネシア、韓国、ラオス、マレーシア、ミャンマー(フィリピン)、シンガポール、ベトナム、および他の地域の侵入): 2,133,885
中華人民共和国と韓国では、神殿が第二次世界大戦の日本のMilitarismのシンボル、および日本の右翼愛国心のシンボリックなセンターとして論争で紛糾させられるようになりました。
神殿によって発行されたパンフレットには、「戦争は起こる本当に悲惨なものですが、私たちが日本からの独立を保護して、アジア人の隣人と共に成功するのにそれが必要でした。」と書かれています。
他のもので、神殿は日本の歴史で博物館を走らせ、日本を守るために争った軍人を記念し、可美(神)としてそれらを覚えています。
「すばらしい東アジアを造るという日本の夢は歴史によって必要とされました、そして、それはアジアの国によって得ようとされました。」と、イギリス(注:英語)のウェブサイトは主張します。
「従軍慰安婦は日本のEmpireでやむを得ず役立ちませんでした。」と、日本(注:日本語)のウェブサイトは主張します。
韓国人はやむを得ず日本のものに改名しませんでした。
「また、神殿はAllied力によって遂行された残虐を示します、対馬丸、どの700が小学校の児童であるかに関する1500人の人の上で死につながるAllied力によって雷撃されて、沈められた運送船の沈没などのように。」
したがって、日本は彼らの目で侵略戦争を正当化したように思えます。
博物館訪問者に見せられた文書のスタイルビデオは第二次世界大戦以前の間、西側の主要国の帝国の進歩から東アジアを救うための努力として日本の東アジアの征服を描きます。戦争犯罪で第二次世界大戦の間に処刑されたおよそ1,000人の捕虜がここに奉安されます。
当時、靖国がすべての日本人の戦争死傷者を奉安するべきであったとき、これは政治問題ではありませんでした。
しかしながら、1978年10月17日に、Hideki Tojoを含む14頭のA級戦犯(極東への国際Military Tribunalの判断に従って)が「ショーワの殉教者」(昭和殉難者Showa junnansha)として静かに奉安されました。
彼らは対応する訴訟と共に以下を含んでいます:(注:姓名の漢字は日本語ページより)
絞首:
東條英機 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 松井石根 武藤章 広田弘毅
生涯投獄:
梅津美治郎 小磯国昭 平沼騏一郎 白鳥敏夫
20年間の投獄(刑に服している間、死にます):
東郷茂徳
裁判所の決定の前に死んだ人々に達しました(病気か病気のため):
永野修身 松岡洋右
メディアに明らかにされると、1979年4月19日に、これはこの日まで激しく続く論争を始めました。
神殿は戦争犯罪人の挑戦的な弁護でさらに多くを怒らせました; 同じパンフレットはクレームを超えても言及しました: 「およそ1,068人の人(戦争犯罪人としてAllied法廷によって誤って起訴されました)がここに奉安されました。」
「神殿の英語ウェブサイトはそれらの1,068をそれらの「だれが戦争犯罪人としてAllied力の紛い物のような裁判所によって残酷に不当に裁かれましたか?」と呼びます。
「1979年の暴露の後に日本の皇帝は、神殿への訪問を支払うのを止めました、そして、これは以来ずっと、ケースのままで残っていました。」
しかしながら、強い声はまた、訪問を支持して[1]日本の人々にいます、東京都知事の石原慎太郎(2004年8月15日に、皇帝がもう一度神殿への訪問を支払い始めるように、彼の強い望みを示した)を含んでいて。
1978年以来神殿の論議を呼んだ自然は数年間領域が主に国内の日本の政治と他国との国の関係の両方を含んでいます。
3人の日本人の首相がそれ以来神殿を訪問することによって、騒ぎを引き起こしました: 1985年のYasuhiro中曾根と1996年のRyutaro橋本と特に小泉純一郎と2004年1月1日。(小泉純一郎は、2003年1月15日に2002年4月23日に2001年8月13日の4回訪問しました)。
一般に、神殿への首相による訪問は特に領域、中華人民共和国、および韓国の国による公式の非難の根拠を引き起こします、そのような動作を見るように日本のMilitarismを合法化する試み。
神殿への訪問も宗教の適切な役割に関する国内の討論で政府で論議を呼んでいます: 自由民主党の政治家の中には、訪問が信教の自由の黙秘権によって保護されて、立法者がそれらに戦争で堕落していた状態で敬意を表するのが、適切であると主張する人もいます。
しかしながら、自分達が非宗教のメモリアルが日本の軍事の死者のために組み込まれるというどんな提案も拒否するので、彼らを光栄に思いたがっている人々は靖国神社を訪問する必要はありません。
また、神殿は非宗教のメモリアルが組み込まれるというどんな提案と「靖国神社は日本の軍事の死者のための唯一無二のメモリアルでなければなりません」という神殿クレームにも反対します。
神殿を訪問するほとんどの日本人がそれを崇敬ではなく、記憶の行為であるとみなします、小泉首相が、彼の論議を呼んだ訪問が日本にかかわる戦争がこれ以上ないのを保証することであると述べていて。
これまで中国が神殿の最も多くの公然と非難する者である、多くの日本人が文化の相違がかかわるのを見ます。
しかしながら、中国人は日本人のように人の犯罪が死の後に解放されて、ことがその中国の批評であることを見ませんが、死者、主要なminsiterによるむしろ神殿の訪問は、日本の軍国主義を合法化する試み、それらのA級戦犯の動作、および右翼愛国心の公的支持政策として政府ヘッドと立法者ではありませんか?
中国と韓国は小泉の動作を批評しますが、首相は言いました: 「なぜそれらが生きていたとき、彼らが犯した犯罪を死者のせいにし続けますか?」
時事問題神宮は、2004年9月以来公式のウェブサイトが中国のドメインから分散型サービス妨害(DDoS)攻撃で来ていると発表しました。日本語における発表
したがって、ユーザは、ウェブサイトにアクセスするのが難しいのがわかるかもしれません。
一層の読書ブリーン、ジョン 「平和の陸の死者と生者:」 「靖国神殿の社会学。」 死亡率9、1(2004年2月): 76-93.
ネルソン、ジョン 「儀式習慣としての社会的な記憶:」 「靖国神社で軍事の死者のスピリッツを記念します。」 アジア研究のジャーナル62、2(2003年5月): 445-467.
靖国の論争に関する以上に関しては、見てください:
イジリ、ヒデノリ 「1972年の外交正常化以来の日中の論争。」 中国季刊誌124(1990年12月): 639-661.
ヤン、Daqing 歴史カードの未来の鏡? ‘歴史問題'を理解しています。21世紀の漢和関係で: 補完性と闘争 マリー・セーデルベリによって編集されます。10-31. ニューヨーク(ニューヨーク): ラウトレッジ、2002。
参照
神道外部のリンク
靖国神社
【 感想 】 全般的には 客観的に書かれていると感じました。歴史の捏造は 日本人が一致団結すれば やがて政府が動き、正しいものになっていくと考えています。 しかし 現在は世界中の常識が 連合国=善で 枢軸国=悪となっていて、当然ながら日本も悪ですね。 これを正確なものに変えていくのは 非常に大変な事だと思います。 |
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